雨の日だった。
傘を持たずに歩いていた僕の前に、
泥にまみれた子犬がいた。
逃げるでもなく、吠えるでもなく、
ただ震えながら、僕の隣を歩いた。
その小さな命に、僕は寄り添った。
でも、家には連れて帰れなかった。
離れようとしたら、全力で追いかけてきた。
僕は――泣きたかった。
あのときの子犬は、
「ただ、そばにいてくれたこと」が
どれだけ嬉しかったのかを、僕は大人になってから知ることになる。
僕は大きな会社に入った。
夢を叶えるためだった。
でもそこは、巨大な“要塞”だった。
地図にもない、“ヘビースモーカーズ・フォレスト”。
空は曇り、
灰色の思想と決まりきった常識が
空にまで染み出して、
希望の光を塞いでいた。
気づけば僕は、
「本当の顔を隠したまま、笑顔だけを使いこなす達人」になっていた。
誤差を許されない世界で、自分を削っていた。
ある日、街で出会った。
まるで異世界から来たような女性に。
汚れていない、透明な瞳。
自分を偽らない美しさ。
最初は、手の届かない人だと思っていた。
でも、なぜか一緒に過ごすようになっていた。
そのときだった。
僕の中の記憶がふいに疼いた。
──あの子犬。
ただ隣にいただけで、全力で喜んでくれた。
あれは、僕だったんだ。
誰かに見つけてもらえることが、
こんなにも嬉しいことだったなんて。
僕は、樹海から出ようと決めた。
でもその先には、崖、河、雲。
逃げ道は、どこにもなかった。
それでも、その夜。
まどろみの中に、あの子犬が現れた。
けれどその姿は、あの頃のままではなかった。
薄く光をまとい、どこか気高い眼差しをしていた。
そして彼は静かに言った。
「古の契約で封印された“巨神像”を目覚めさせれば、
この霧深き牢獄から抜け出せる。
それを動かせるのは──“君の心”だけなんだ。」
目覚めた僕の前には、まだ霧が広がっていた。
でも確かに、心に“声”が残っていた。
僕は立ち上がった。
巨神像なんて、どこにも見えなかった。
でも子犬の声が、また聞こえた。
「自分の心に寄り添って、ハートのネジを回すんだよ」
目を閉じて、胸に手を当てる。
ギギギ……ギィ……
心の奥で、小さなネジが回り出した。
古びた歯車が、静かに息を吹き返すように。
その瞬間、
空を覆っていた煙が裂け、
光の柱の中から、巨神像が舞い降りてきた。
僕は乗った。
もう、歯車じゃない。
もう、誰かの夢を生きない。
樹海の向こうにあったのは、
自由という名の、青い空だった。
ハートのネジは、今も僕の中にある。
巨神像は、僕とともに空を飛んでいる。
今日もどこかで、あの日の気持ちに手を伸ばしている。
