あの頃の僕は、
始発で現場に向かい、終電で帰る日々を生きていた。
通勤時間は往復4時間、
パンパンの電車に潰されながら、
心はいつも圧縮されていた。
現場の最前線から、本社の管理業務まで。
全部ひとりでこなしていた。
でも、誰も見ていなかった。
上司たちは、成果だけを吸い上げる。
それはもう捕食だった。
支配欲と、捕食欲。
会社の中には、そんな欲が充満していた。
生き残るには、飲み込まれるか、飲み込むしかない。
そんなルールが敷き詰められていた。
ある日、管理している大型物件で
大きなイベント案件を任された。
得意分野だ。スケジュール、交渉、すべてを設計していく。
その案件に、外国からの特待生のような立場の女性が
一時的に僕の部下として配属された。
最初は期待していなかった。
だが彼女は、想像以上に仕事ができた。
指示した通りに、完璧に資料を整える。
彼女が加わってから、現場は少し明るくなった。
僕はひとりじゃなくなった。
だが、彼女の評価が上がっていくにつれて、
自分の影が薄くなっていく気がした。
苛立ちが募っていった。
そして――
ある日、6階でイベントの打ち合わせ中に、
彼女が言った。
「嫉妬って嫌ですよね。
いろんな人の助けがあって今の自分がいるのに、
“できる”っていう傲慢さが、自分を見えなくさせるんですね。」
僕は何も言えなかった。
言葉が喉の奥で詰まった。
そして、やたらと空腹を感じた。
そのとき彼女が、小さな手鏡を差し出した。
「さっき、そこで拾ったんです。」
僕は無言で受け取り、ポケットにしまった。
だが――
彼女は僕の態度に傷ついたのだろう。
強く当たってしまった日を境に、
彼女は、僕のそばから離れていった。
また、一人になった。
イベント当日。
警備員だけが残る早朝の館内で、
僕はサプライヤーたちに指示を出しながら、
照明のチェックに回っていた。
そして6階にたどり着いたとき、
フロア全体が、異様なほど真っ暗だった。
そこにいたのは、
和服を着た、背の高い女性。
こちらに背を向けて立っている。
「すみません、関係者の方ですか?」
声をかけると、彼女はゆっくり振り返った。
その顔は、闇に溶けていた。
のっぺらぼう――いや、それすらも曖昧な、影のような顔。
刹那、鋭い爪が僕に襲いかかる。
僕は逃げる。館内を、必死で。
体中が傷だらけになりながらも、
逃げ回る。
やがて、破けたポケットから
あの手鏡が、床に転がり落ちた。
化物の動きが止まった。
僕は手鏡を拾い上げ、振り向きざまに
彼女に向かって突き出す。
鏡に映ったのは、
醜く歪んだ、彼女の“本当の顔”。
化物はそれに絶叫し、
身体が炎のように崩れ落ちていった。
6階は、静寂に包まれた。
気づけば僕のポケットは、空だった。
手鏡はもう、残っていなかった。
そうか――
僕は、6番目の罪に取り憑かれていた。
嫉妬という名の闇に。
会社という名の船。
そこには、暴食と支配の匂いが満ちていた。
知らぬ間に僕も、
誰かを飲み込もうとしていた。
だから僕は、
その船を降りた。
暴食が集うその船から
空っぽのポケットで駆け出して
今は、風を感じながら
自分の感性を翼にして飛んでいる。
